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神社詳細
海南神社 (かいなんじんじゃ)
  
所在地住所 〒238-0243
神奈川県三浦市三崎4ー12ー11
電話番号 046-881-3038
FAX番号 046-881-2314
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メールアドレス
[ 海南神社 ]
※ご注意:システムの構成上、地図のポイントと実際の神社の位置に多少の差異があります。

藤原資盈   ( ふじわらすけみつ )
藤原盈渡姫   ( ふじわらみつわたりひめ )
地主大神   ( じぬしおおかみ )
素盞嗚尊   ( すさのおのみこと )
天之日鷲命   ( あめのひわしのみこと )
菅原道真   ( すがわらみちざね )
筌竜弁財天   ( せんりゅうべんざいてん )

1月9日初神楽祭(はつかぐらさい)
2月21日祈年祭(きねんさい)
[春祭り (はるまつり)]
4月第四日曜日食の神祭典・庖丁儀式(しょくのしんさいてん・ほうちょうぎしき)
6月1日又は第1土曜日八雲祭(やぐもさい)
[お天王さま (おてんのうさま)]
[神幸祭 (しんこうさい)]
7月海の日前の土日両日夏例大祭(なつれいたいさい)
[お練獅子 (おねじし)]
[神幸祭 (しんこうさい)]
11月23日新嘗祭(にいなめさい)
[秋祭り (あきまつり)]
11月初未日出居戸祭(でっとさい)
[湯立神事 (ゆたてしんじ)]
11月初未日の翌申日出居戸祭(でっとさい)
[面神楽 (めんかぐら)]
11月初未日の翌酉日出居戸祭(でっとさい)
[面神楽 (めんかぐら)]

 御祭神
  藤原資盈公、盈渡姫、地主大神、天之日鷲命、筌龍弁財天。相殿に菅原道真公、豊受気比売大神、速須佐之男大神を祀る。
 
  由緒沿革
  御祭神・藤原資盈公は、天兒屋根之命の苗裔である。九州太宰少弐広嗣の五代の孫に当り、五十六代・清和天皇の御宇、皇位継承争いに関係した伴大納言善男の謀挙に荷担しなかった為、讒訴で追討の罪を蒙って筑紫の配所に航する途中、暴風に遭遇して貞観六年(八六四)十一月一日父子三人、郎党五十三人は当地に着岸した。(公の嫡男は房総半島に漂着し、現在の鉈切大明神は資盈公の嫡子を祀ると伝えられる。)
 その後、資盈公は土地の長に推戴され、房総の海賊を平定し、郷民を教化して特に漁業の知を開き、文化の礎を築くなど福祉に努力したので、郷民の尊崇の念も篤く、貞観八年(八六六)に公が歿すると、其の亡骸を海に沈め、祠を花暮海岸に建立して祀った。後、花暮の祠を本宮として天元五年(九八二)に現地に社殿を造営し、三浦一郡の総社となる。その後、承応二年(一六五三)三月、正一位(吉田家神道の宗源宣旨)に進められ、享保四年(一七一九)三浦半島の総鎮守となる。明治六年郷社に列し、同四十年神饌幣帛料供進神社に指定された。
 
  祭典
  初神楽(中祭)一月九日、春祭二月二十一日、八雲祭(中祭)六月一日、例祭七月十八日、出居戸祭(中祭)十一月初未日、秋祭十一月二十五日
 
  神事と芸能
  一月十五日午前十時・ちゃっきらこ奉納舞(祭神・資盈公の妃の盈渡姫が土地の娘に教えたとの口碑があり、また歌舞島に遊んだ源頼朝公の旅の慰めにと里女の歌に合せて、童女達が即興的に小竹を叩いて踊ったとも伝えられている。昭和四十年五月、県の無形文化財。昭和五十一年五月、国の重要無形民俗文化財に指定。)※ユネスコ文化財世界遺産
 七月十八日〜十九日の午後二時・お練り獅子(県下最大の木遣りによる雌雄二頭の道行獅子。)
  十一月初未日の翌申、酉の両日午後五時・里神楽奉納舞(十一月初旬の未の日を出居戸と称し、忌穢のある家の人々は海浜の所定場所におもむいて物忌をした。その日、神社では湯立神事を行い、霰餅を撒く習俗が遺っており、当日は祭神が三崎へ漂着した日で、霰が降ったという伝承による。その翌、申・酉の両日、当神社の神楽師会の人達が神代神楽を演じる。これを「出居戸の神楽」といい、また「廿五座神楽」ともいう。里神楽は元和(一六一五〜一六二四)の頃に始ったと伝えられる。神社境内の神楽殿で夜更けまで演じられ、岩戸開き、夷の鯛釣り、翁舞、獅子舞等があり特に夷の鯛釣りを「漁神楽」と称して重んじられている。神代神楽が職業化している今日、純粋に氏子達によって演じられているのは県内で当社一社であるといっても良い。(昭和四十六年一月、市の重要無形文化財に指定。)
 
  社殿並境内
  本殿(神明造)幣殿(切妻造)拝殿(権現造)以上木造、朱塗銅板葺、三棟一宇、四五坪、神楽殿(流造木造銅板葺一二坪)、社務所(入母屋造・瓦葺四三坪)参集殿(入母屋造亜鉛葺二五坪)、境内坪数一、五〇〇坪
 
  社宝
  縁起書 補陀落山海潮寺開基源心檀越香能連の筆にして大井秀延の祖物部刑部恒光より伝わる。宗源宣旨 神祇道管領別当長上従二位卜部兼敬享保四年八月十三日当社に宣下せるもの。増一階神宣旨 同卜部兼敬寛文二年四月当社へ宣下せるもの。扁額(吉田兼敬筆)、神剣・一口、獅子頭・一対(室町時代作)、擬宝珠(江戸名工惟名兵庫作・寛永十七年銘)、神楽面・五一面
 
  附記
  平安時代の頃、三浦為継は社領を寄進し、社頭を改築し、後、三浦家の祈願所とした。尚、三浦大介義明は氏神である当社参詣の折、「神事狐合」(白と赤の狐が闘い、白狐が勝った)で源平の争覇を占い、神意により源頼朝側に荷担したと伝えられる。 境内には頼朝公手植えと伝えられる公孫樹(樹齢約八百年)が神木として雌雄の二株が保存されているが、乳根のある方に乳の足りない女が祈りをこめて触れると乳が出るようになるといわれている。又御手洗池に架する神橋の擬宝珠は、三崎御船奉行・向井左近将監忠勝が寛永十七年(一六四〇)に奉納したものである。
 社頭の狛犬は、己れの病む個所に相当する部分を撫で、その手で患部をこすると癒るとされている。又、社殿の右側の庭に祠があり、木造の白馬が祀ってある。昔神社の神馬が逃げ出し町内で死んだ。たちまち疫病が蔓延したので白馬を奉納したところ疫病も鎮まったという。後、この馬に祈ると脚気がなおるといわれている。
 為朝が疱瘡の神様になったのは、伊豆大島から来ているとされている。昔、疱瘡が流行したとき、大島だけが一人の患者も出ない、これは豪勇の為朝が居たので疱瘡をよせつけないのだろうという俗信から来ているもので、それが三崎に入ったのである。この神様は又、痳疹の神様としても信仰が篤い。
  祭神資盈公は相撲嫌いである。昔、天覧試合で力くらべには勝ったが、相撲には負けたからだとの故事による。境内に置かれている力石は角力取りには持ち上げる事が出来ないし、三崎に相撲が催された時は必ず雨が降る。又、力士の参詣は過去一度もなく、昭和初期に名横綱・双葉山の参拝が計画されたが氏子の反対で中止された事がある。
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