[参拝の栞]
鎮座地 神奈川県高座郡寒川町倉見四六
御祭神 天照皇大神・熊野加武呂伎命
境内社 浅間大神、御祭神 木花之佐久夜比賣命
宮司 瀧本正彦
倉見神社の祭事
一月一日 歳旦祭、二月十七日 春祭、七月十五日 浜降祭、七月十七日 虫送祭、
九月十五日 神幸祭、十月二日 例大祭、十一月二十三日 秋祭・七五三祭
由緒
創建年月は不詳であるが小田原北条家家中、中山彦八郎が倉見村を知行していたおり、神明社、熊野社の両社を勧請したと伝えられている。爾来倉見村の鎮守として氏子の尊崇するところである。
明治二年、神明社、熊野社の両社に、部落内の数社を合祀して「倉見大神」と改称する。
明治六年、村社に列せられる。
明治二十八年、寒川神社本殿造営に際して、旧殿の払下げを宮内省の許可をとり、倉見大神の本殿とし、併せて幣殿、拝殿も改築する。
昭和十八年十一月、「倉見神社」と改称し、神饌、幣帛、供進神社としての指定をうける。昭和二十八年十二月、「宗教法人倉見神社」となる。
昭和四十八年、社務所及び職舎を建設する。
昭和四十九年、本殿の瓦葺を銅板葺とする。
昭和五十二年十二月二十五日、本殿と境内にある夫婦欅が寒川町から「寒川町重要文化財」として指定をうける。
境内社について
浅間大神の創建年月日は不詳であるが、天正年間に高木甚太郎が倉見村に陣屋を構えていたおり、浅間大神を勧請したと伝えられている。明治十六年二月、社殿の損傷甚しく、石碑を建立する。昭和六十年十月、石碑に亀裂が生じ危険のため修復する。
社殿及び不動産
本殿 木造銅板葺 一九.八平方メートル、幣殿 木造 一一.〇平方メートル、
拝殿 木造瓦葺 二六.一平方メートル、御輿庫 鉄筋コンクリート 銅板葺 二四.〇平方メートル、社務所及び職舎 九二.七平方メートル、境内地 三,六九八.〇平方メートル、境外地 一,六五八.〇平方メートル
文化財の由来
本殿については寛保元年(一七四一)であり二百四十四年前、寒川神社本殿として造営されたもので、明治二十八年にこの本殿の改築に際し当時の丹羽与三郎宮司が国の許可を得て払下げたものであり、この本殿には十二支をはじめ、花、馬及び獣等の彫刻があり見事なものである。
夫婦欅については樹令約三〇〇年と推定され根廻り九米根元から約二米のところで、二股に別れているので(めおと)欅と呼ばれている。幹廻りは大きい方が五.二米、小さい方が二.六米で高さは約二〇米であり町内にない巨木である。
神輿について
倉見神社にあっては、十月二日の例祭が、第二次大戦中諸般の事情により例祭日が変った年代もあるが当時のお祭りは夜になると「歌舞伎」又は神楽、芝居と、祭りの一夕を賑わせたが「神輿」はなく、地域全体の祭り気分に今いちの感があったが、昭和五十年に入って奉製の話しが出て昭和五十四年に至り、地域・氏子崇敬者の浄財により欅造りの御輿(東京台東区眞如堂造)ができ昭和五十四年九月、倉見神社に奉献されたものである。
御輿は銅体彫刻合メッキ、屋根ウルシ塗で重量は不詳なれど浜降祭参加神輿の中でも最重量の御輿であるとの話を聞く。
現在では九月十五日神幸祭として、若者の担ぐ御輿が倉見全域を渡御する姿は平和の標であり津津浦浦までがお祭り気分になる。
例祭は十月二日に定着し、当日は神事のみ斉行されている。
倉見の由来
その名の起りに高坐見(たかみくらみ)とも言われるが、他に草味の頃開拓者達の米倉がこの高台から見えたので、その名が起ったものとも言われている。小田原北条の頃は、山中彦八郎知行していたことは役帳に「三十貫文東部一宮内倉見、山中彦八郎」とあって当時一宮庄に属していたのである。
享保年間の調べによれば、石高七〇〇石で高木甚衛門と佐野吉之亟が知行していて、高木氏は先祖甚太郎清方が天正十九年賜った由で始めの頃は高木氏がこの地に居住したので、その邸宅及び墓をこの地に残している(高木清方氏の墓は行安寺北東一〇〇米程の所に有る)
新編風土記による天保の調べでは両氏の子孫佐野義行高木甚太郎の知行となっていた。
昭和の初期頃の「倉見の桜」は余りにも有名であった。この起りは明治三十四年、この地に住む真田喜三郎氏が国の花としている桜の苗木を相模川土堤(現在日鉱東側土堤)[庚申塚〜川端まで]に一〇〇本と行安寺に八〇本寄付され植樹されたもので、春ともなれば遠近の方で賑わい、倉見駅伝競走も始り(現在の寒川町観桜駅伝の前身)盛況であった。しかし敗戦の昭和二十年九月十日〜十五日の間に米軍の観桜化を恐れ伐採され製炭に薪等にして部落民の燃料不足を補ったのである。
なお、この地から見る富士は絶景として彼の「広重」も描いたと伝え聞く「倉見富士」は庚申塚地区からのものであると伝えられる。
このように神社のことを知ることが、この地に居住するものとして参考になれば幸いです。
参考文献 神奈川県神社誌、新編風土記、町道の栞
以上