神社情報
横浜市神奈川区
大綱金刀比羅神社
おおつなことひらじんじゃ横浜のこんぴらさん
よこはまのこんぴらさん
勝軍飯綱大権現
旧東海道、神奈川宿台の坂に鎮座し、往時は東海道を上り下りする旅人は道中の安泰を祈り、また、すぐ下の袖が浦神奈川港に出入りする船は海上安全を祈願して出港し、街道すじには回船問屋が軒を連ね繁栄を極めていた。御祭神 大物主神 大国主神の和魂で福徳円満、商売繁盛、海陸交通、医薬を司り給う大神。金山彦神 金銀銅山を司り給う大神。日本武尊 治安、安寧に尽くし給う大神。大山津見神 国土安泰、国家安全、家内安全、商売繁盛、海運、延命長寿、縁結び、夫婦和合、子育て、厄除けを司り給う大神。末社 三宝荒神社(火之迦具土神) 鉱業、製鉄、農機具、刃物、陶磁器製造、金銀財宝、金運、招福、鎮火、防災を司り給う大神。弁天社(奥津島比売命)(市杵島比売命)(多岐津島比売命) 陸上、航海安全、漁業、運輸、五穀豊穰、国家平穏を司り給う大神。龍神社(闇淤加美神)(闇御津羽神) 雨乞、止雨の霊験があり灌漑、養蚕の守護を司り給う大神。稲荷社(宇迦之御魂神) 市場の神、商売繁昌の守護を司り給う大神。御社号 古来、飯綱大権現、金刀比羅大権現と称してきたが、明治2年、太政官通達により大綱神社、金刀比羅神社と改称し、さらに明治44年、両神社を合祀し大綱金刀比羅神社と改称した。由緒と沿革 治承4年(1180)平安時代、源頼朝は伊豆国石橋山の一戦に敗れ安房国へ小舟で逃れようとしたが、逆巻く浪は雪を噴いて渡航することができず如何にせんかと心を砕き、日頃の疲れにうとうとまどろむ中に大権現の神霊現れ『汝思い惑はず目指す安房の国に渡るべし、海上に憂いあらば吾よく守護してその難なからしむべし』と告げ終えるとそのお姿が見えなくなった。頼朝、目覚めて後あまりの不思議に言葉も出なかったが、さしもの浪風も忽ちに治り難なく安房国へ渡り、源家再興を企て後に天下を我がものとした。頼朝は深くこの時の鴻恩に感じ、勝軍飯綱大権現とあがめ奉り、文治年中に青木山上に一宇を建て武運を祈った。又この袖ヶ浦から出船した者は、必ず此所で護摩を修めてから諸国へ出航したものだと言う。◎棟札その他が物語る社史略記(※印は戦禍で崩壊し今はな無き物) 寛永19年(1642)、代官伊奈半十郎、神主長塚常陸守重永、社殿を造営した棟札 ※宝暦14年(1763)、石灯篭一対 紀国屋忠右衛門奉納 天明8年(1788)、御厨子塗代え 江戸材木町仏工清七 ※享和元年(1801)、石灯篭四基 回船問屋 海上安全 小野屋茂兵衛 津屋太兵衛 ※文化7年(1807)、石灯篭 筑前国宮浦 栄久丸米蔵 弘化3年(1846)、金刀比羅宮社殿営繕棟札 弘化4年(1847)、句碑 『吹行やひともすすきの秋のかぜ』 明治15年(1882)、村社に列せられる 明治43年(1910)、裏山崩壊し金刀比羅神社を半壊 明治44年(1911)、社殿を再建。山上より大綱神社を移築し本殿となし両社を合斎して社号を大綱金刀比羅神社と改称した 昭和60年、裏山崩壊し現在に至る(仮社殿)
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