神社情報

1204037

横浜市磯子区

熊野神社

くまのじんじゃ
住所: 〒235-0036 横浜市 磯子区 中原4ー24-17
電話: 045-771-6534

建久3年(西暦1192)、源頼朝が征夷大将軍になった年、鎌倉四家の道場(山崎ノ泉蔵社・亀ヶ谷ノ権現堂・二階堂ノ愛泉坊・蔵見堂)の内、山崎泉蔵院の僧真締智覚法印に治国安民の祈祷を命じた。頼朝の命を受けた智覚法印は、我が国第一の霊場とされて居る紀州熊野に参籠して幣帛を捧げ、三所権現の御分霊を樟の舟に乗せ祈りを込めて海に流した。樟舟は神意のまにまに旬日の後中原の海岸に流れ着き、この事が将軍に伝わり、頼朝は御神慮の有難さを感じて、近くの地に神殿を建てるよう智覚法印に命じた。智覚法印は東に海を望む景勝の当地を選び山上に熊野三所権現社を祀り、山裾に紀州山桐谷寺を建立すべく同年5月6日に着工し11月15日に完成した。後に桐谷寺は山号を大霊山泉蔵院と改め熊野権現社の別当として当社に奉仕し、国家安泰、万民和楽の祈願を続けて来た。その間文禄3年9月(1594)、社殿再建、正徳5年(1715)、26世善祐のおり社殿を改築され規模は9尺に2間であった。後、安政4年(1857)、再度改築された。明治初年の神仏分離令により社名を熊野神社と改め法印は神職となり、約700年間続いた泉蔵院は廃寺となってしまった。明治43年、神社統合令により村内の中原明神・諏訪神社の2社が合祀された。大正4年、社殿の改築が行われ本殿は2間に1間半の神明造り、幣殿は二間に1間半、拝殿は2間半に2間半向拝付銅葺の建物になった。昭和61年に社殿新築の議が起こり、寺田勝彦氏が建築委員長となり、大同建設株式会社岡田文夫氏が施工を請持ち、昭和62年12月に現社殿が完成した。本殿2間に1間25神明造り・幣殿2間に1間75・拝殿三間に2間唐破風付銅葺である。[御祭神]伊邪那美之命(本宮)・事解之命(那智)・速玉之命(新宮)・日本武之尊=中原明神・建御名方命=諏訪神社 [境内社]金比羅神社・摩利支天社・稲荷社・泉蔵社(別記) [祭事]1月初 新年祭、2月11日 祈年祭・稲荷祭、5月下旬 摩利支天祭、8月中旬 例大祭、11月23日 新嘗祭 泉蔵社縁起 当社は建久3年(西暦1192)、源頼朝が征夷大将軍になった年に、国家安泰・万民和楽を祈願する為、鎌倉山崎の泉蔵院大僧都真締智覚法印に命じて、此の山上に熊野三所権現を勧請して熊野権現社を創建し、併せて山裾に寺を開創しました。この造営工事は同年5月6日に着工し11月15日に完成しました。落慶の日に頼朝は梶原を奉幣使として派遣し「紀州山桐谷寺」と云う寺号を賜わり智覚法印をその別当に任じました。2世栄源法印のおり梵鐘を造立、三世浄泰法印の頃(推定)鎌倉の兵火を避けて山崎泉蔵院を引き払って当地に移り山号を「大霊山泉蔵院」と改めました。5世祐賢法印(正応2年・1289)が社記を書き、26世善祐法印が此の社記を書写しています。28世祐山法印の折り正面に2間に2間半の観音堂が創建されました。当時の本堂の規模は南向5間半に5間でした。約700年の間泉蔵院は熊野権現社の別当として奉仕し、治国安民の祈祷を続けて参りましたが、明治初年の神仏分離令により熊野権現社は熊野神社となり泉蔵院は廃寺となってしまいました。昭和63年、熊野神社御社殿新築落成の嘉き年に当たり、曾て熊野権現社内に合祀されていた、太神宮・貴布祢・八幡・牛頭天王・船玉の諸神と泉蔵院内に祀られてあった、不動様・迦羅童子・制多迦童子・観音様・お釈迦様・地蔵様・大黒天様・神変菩薩・四天王の諸神を合祀して「泉蔵社」と為し、往古を偲ぶよすがとしました。昭和63年 熊野神社宮司 35世 杉原章夫。

御祭神

伊弉冉尊(いざなみのみこと)
事解之命(こととけのみこと)
速玉之命(はやたまのみこと)
日本武之尊(やまとたけるのみこと)
建御名方命(たけみなかたのみこと)

祭礼

1月1日
新年祭(しんねんさい)
2月11日
祈年祭(きねんさい)
8月18日近い日曜日
大祭(たいさい)
11月23日
新嘗祭(しんじょうさい)

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