神社情報
祭神 天児屋根命・武甕槌命・経津主命・比賣之命、国土経営に功績のあった神々 社殿 平安中期の建立とされている。沿革 春日神社は古く本郷六村の総鎮守であったと伝えられ、天児屋根命外三柱の神を奉齊し、末社には神明(桂・公田)・八幡(鍛冶ヶ谷)・白山(上郷)・稲荷(中野)の本郷各村の村社がある。新編相模風土記稿によれば、永禄8年(1565)に小田原北条氏の公田の地頭職であった宇部左京亮の子息宇部松菊丸が再建したといい、社伝もこれを伝えている。しかし春日神社の総社である奈良の春日神社は奈良時代初期の創建で藤原氏の氏神と祖先神が祭られており平安時代を通じて藤原の拡大発展とともに全国に流布され藤原一族支配の地域神として、村社、鎮守、総鎮守となったという。本郷の地は平安時代、山ノ内荘本郷といわれた。山ノ内荘は柏尾川流域を経営した秀郷流藤原氏の名族山ノ内荘、藤原氏荘園である。本郷は奈良朝尺度郷の中心地であり、山ノ内荘の中心的穀倉地帯であることを考えるとこの春日神社は山内首藤原氏により創建されたとするのが自然である。山内首藤原氏は荘園領主ばかりでなく在地武士団でもあり、源義家以来源氏と深く関係していた山ノ内俊通とその子俊綱は保元の乱(1156)、平治の乱(1159)の折、源義朝につかえ戦死している。源頼朝の挙兵の折は俊通の次男が頭領であり当然頼朝を援けると思われたが、頼朝方弱小とみて平家方に味方した。このため後に鎌倉に入府した頼朝を捕らえ山ノ内荘を土肥実平にあずけ、後に和田義盛に与えた。このため宗敬の中心山内首藤氏を失った春日神社は次第に衰亡したものと考えられる。戦国時代の末、新しく小田原北条氏から「本郷公田」の領主に任ぜられた宇部氏は周辺に威勢を振るう政策の一つとして春日神社と其の別当寺の龍光院(明治に廃寺となる)現在は春日神社の社務所を再建し其の昔の総鎮守の力を示すため、当時の本郷各村の村社を末社として記録したと考えられる。要するにこの春日神社は伝えられるよりは、はるかに古く平安時代の創建と考えられる
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