神社情報
子の神・日枝神社は旧中野村の守護神として鎮座し、「子の神社」は大己貴命(大国主命の別名)殖産興業の神、「日枝社」は大山咋命(大年神の御子)文化開発の神、を祭神として仰ぎ、其の創立は詳かではないが、證菩提寺建武の書に「子の神」の名ある処より、古社である事は証せらるるも当時は「子の神社」と「日枝社」は別社であり、其の合祀については此亦不詳である。しかし社伝によれば文明年間(1469~86)当時、此の地を所管していた上杉関東管領が土地肥沃なITATI川流域の中央部(中野の里)の守護神として此の両社を併せ祀り、農業の振興を図ったと記されております。斯くして明治、大正にかけ、神社制度の整備に伴い、村社に列格され、中野集落の鎮守神として村民の信仰を集めてまいりましたが、大東亜戦争集結後は住宅地として開発され、昭和38年、第百土地(株)の手を経て、社有山林を1ヶ所に集めて造成し、現社地が構成されました。爾来、住宅の密集と人口の増加につれ、氏子地域は中野、若竹、元大橋の三町に分割、連合体を組織し、新旧の住民互に融和を計りつつ、神社運営に当ってまいりました。其の間、激しい時流の変遷の中に、社殿も老朽化し、心の故郷としての品位を傷つけ、神慮の程も畏しと、氏子一同産土信仰の原点に立ち戻り、浄財を集めて、昭和61年1月21日、起工式とともに、工事に着手して以来、日夜協力一致して事に当たり、此処に荘厳な社殿・完備せる社務所の竣工を見、神域は一新して神威は灼熱と輝き渡り有難き極みであります。此も偏に神明の加護と氏子一同の協和精神の発露の賜と感激に堪えず、依って神社の沿革と経緯を記し、後世に伝える所以であります。昭和61年9月21日 子ノ神日枝神社々殿再建実行委員会 (注)文中のITATIは「けもの」偏に「由」です。
御祭神
祭礼
神奈川県の神社を探す
フリーワードの部分に神社名や御祭神の名称、鎮座地、お祭りの名称などを入力すると、該当する
言葉が含まれる神社が検索一覧に出てきます。