神社情報
由緒 当社の創立については定かではないが、御霊信仰の思想と鎌倉地方開発の跡を考え合わせると、平安末期には存立していたものと思われます。(文博中村孝也氏説)祭神景政公は桓武天皇(50代)の末裔、平氏一門で、時代的には源頼朝公開府より90余年あまり此の地方一円の領主でありました。当時関東には大庭、梶原、長尾、村岡、鎌倉の所謂関東平氏五家が割拠しており、その五家の先祖を祭る五霊神社が先ず建てられ、その五霊が同音である御霊に変わり、当社の場合祭神も五家の祖霊から武勇の誉れ高い領主景政公一柱にいつしか変わり、権五郎神社と俗称せられるようになったと思われます。景政公のことは、「奥州後三年記」(南北朝時代に書かれた絵巻物)に見られますが、そのあらましは次の通りです。景政公16歳にして源義家に従い、奥州後三年役に金沢の柵(秋田県)を攻めた折、鳴海三郎という者に右の眼に矢を射込まれました。然し彼はひるまずその矢を抜かずして答の矢を放って相手を倒してしまいました。そして味方の陣に帰り兜をぬいで「景政手負いたり」と大声してたおれました。そこで味方のこれも亦剛の者、三浦の平太為次という武士が景政の眼に刺さった矢を抜こうと「つらぬき」(毛皮で造った靴)をはいたまま、景政の面部に足をかけました。すると景政は「弓矢に当たって死するは武士の本望だ。なのに土足をもって面部を踏むとは何事ぞ」と刀をかまえてその無礼を叱咤した。為次驚いてその無礼を謝し膝を以て押さえその矢を抜いた。人々此を見聞し景政の功名いよいよ高しと。こうしたことから、景政の勇名は鎌倉武士の誇りとなり、御霊神社の祭神として崇められるようになりました。後景政の子孫大庭平太景能、同三郎景親も此の事蹟を誇りとして、保元の乱の折「答の矢にて敵を射て名を後代に挙げ、今は神と言われたる鎌倉権五郎景政が末裔にて云々」と軍陣に名乗りを挙げております。鎌倉時代になってからも崇敬の度は益々高く「吾妻鏡」の中に其の記事が散見されます。文治元年(平家滅亡の)8月27日五霊社の社殿が鳴動して地震の如くすさまじく、幕府から使者が参向し御願書を奉納して賜物を下し神楽を奏したと書いてあります。又その他にも五霊社の記事が多々あるのをみても五霊社はさまざまな奇端の現われる神社として幕府の崇敬の度が厚く、諸行事がこのお宮を中心に行なわれたことがうかがわれます。明治以後鎌倉市が観光都市として隆盛におもむくと共に世人の崇敬もさらに深まり、祭神の武勇・羞恥の精神を慕い除災招福を祈る参拝者も年々増加しております。現代の社会にあっても景政公の旺盛な精神力は初志の貫徹を祈る人達への厳しい励ましとなることでしょう。
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