神社情報

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三浦郡葉山町

御霊神社

ごりょうじんじゃ
住所: 〒240-0113 三浦郡 葉山町 長柄662

境内にはタブ・クス・ケヤキ・モチ・ヒサカキ等多く三浦半島特有の暖地性植相を呈し、続く背後の南向斜面の杉山(境外地)を含め森厳性豊かな神域である。御祭神 大巳貴命、御霊命(ゴリョウノミコト) 御由緒 今より800年余の昔(平安時代末治承の頃)長江太郎義景(鎌倉権五郎景政三世孫)は三浦氏(大介義明)の有力麾下として衣笠城搦手の要衡長江(現長柄)に館を構えた時、郷の平和と発展を希いその鎮護として祭神を勧請、御霊神社を創設したと伝えられる。所蔵の棟札に「大日本相陽城小坂郡三浦長柄村鎮守御霊大明神云々山城国津々木郡藤原朝臣仙波右馬允伊宗代官永正14年(1517)丁丑4月16日企大永3年(1523~460余年前)癸未季春28日御遷宮別当梵照」とあり、別の銘札には「文化13年(1816)大仏師三橋永助御霊大権現を彩色し奉る」と記され、また相模風土記稿に「御霊社。村の鎮守なり神体木像。長さ8寸本地仏薬師を置く。例祭9月朔日、社領3石の御朱印は天正19年(1591~凡400年前)11月賜う。長運寺持…」とあり古社であることがうかがえる。銘札の「文化年奉彩色」はこの御神体のことであり、社領3石の御朱印(将軍よりの拝領地で1反6畝~1350平方㍍)は境内に続く東側にあった。明治維新の神仏分離令により寺の管理は脱し、明治6年(1873)12月、村社に列せられ大正5年(1916)8月、神饌幣帛供進神社の指定を受けた。戦後神社制度の改正により境内地は官有から社有となり、昭和28年、宗教法人として発足。神社本庁所属の神社となった。(代表役員宮司小坂昌美外責任役員8名) 現社殿(本殿・幣殿・拝殿の権現造瓦葺)は大正天皇御即位の大礼を記念し大正6年(1917)8月、再建され、近時新嘗の祭時七五三祝の祈請を併せ行うに及んで手狭となり昭和51年8月、拝殿の一部増築となった。社務所は境内地に続く長柄会館階上に付設(和室28畳)されている。祭儀 祈年祭 3月21日(春分の日)。例大祭 前夜祭 8月末土曜日、大祭 翌日曜日。新嘗祭 11月23日(勤労感謝の日)。御奉射祭 1月7日当社に古くから伝承されている御奉射祭は御弓射式ともいわれ、氏子中その年満六歳(学齢)に達した男児の勧学や剛健に育つことを祈請する初春吉例の弓射り神事である。父兄同伴の男児は社殿で祭事、その後境内射場で夫人が忌的に忌矢を射当て御祝品(破魔矢・御守札・学用品等)の授与を受けて祭を了る。この神事は県下は勿論全国的にも珍らしく、祭神や社創設の長江太郎義景が弓の達人であり剛毅な鎌倉武士の典型とされたことに因み、あやかるべく創められたものと推察される。施設・文化財等 一、忠烈塔 境内の砲弾型忠烈塔は、昭和6年11月建立されたもので題字「忠烈」は元伯爵元帥東郷平八郎の真筆である。二、鳥居 御手洗鉢傍の安山岩製鳥居(亀腹は凝灰岩)は、寛政元年西浦賀感應院(西叶神社別当、今はない)住持演如(姓荒井当地出身者)の奉納によるもので、明神鳥居として条件に叶い欠損風化もなく立派な姿の鳥居である。三、掲額 拝殿の掲額「御霊神社」の刻文字は海軍大将有馬良橘の真筆である。四、棟札 大永3年(1523)、仙波右馬允代官による当社再建を誌した棟札写。文化13年(1816)、「奉彩色御霊大権現」を誌した棟札。五、軸物 「忠烈」東郷平八郎真筆掛軸。「御霊大権現」有馬良橘真筆掛軸。六、祭囃子保存会(昭和54年発足)と神輿保存会(昭和63年7月発足)は例大祭時子供会の曳く山車と共に賑やかに巡行奉納される。

御祭神

大己貴命(おおなむちのみこと)
御霊命(みたまのみこと)

祭礼

3月春分
祈年祭(きねんさい)
11月23日
新嘗祭(にいなめさい)
8月末の日曜日
例大祭(れいたいさい)

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