神社情報
御祭神 天手力男命 「御事歴」神代の昔、天照大御神が、速須佐之男命の荒い所行をおそれなげかれて、天岩屋戸へおこもりになりましたので、大御神の神徳が仰がれず、ために天地暗闇になって、もろもろの妖禍がどっと起りました。八百万神たちはお困りになって、急遽天安河原に集って会議を開き、大御神出御の策を講じ、天宇受売命をして岩屋戸の前で神楽をあげさせ、神々がにぎやかにはやしたてました。大御神は、何事が起ったのであろうと、岩屋戸を細目におあけなさいましたので、待ちかまえていた天手力男命が、岩屋戸を引きあけ、大御神の出御を仰ぐことができましたので、世の中がぱっと明るくなり平安をとり戻しました。(注)天岩屋戸はいわゆる岩窟ではなく、岩窟のように堅固な締りのできる屋戸という意。天手力男命は、手力のすぐれた神であらせられますが、それは単なる強力だけでなく、もろもろの妖禍をとりのぞき罪けがれをはらい清め給う神威と神徳のすぐれた神におわしますのであります。後、天照大御神が、日嗣皇子彦火迩々芸命を、豊葦原瑞穂国(日本の国土)に降臨し給うた時、天手力男命も随伴の神に加わり、永く皇統をお守りなされた功績の高い神であらせられます。一、沿革 五霊神社創建の年代は明らかでありませんが、源義朝公が沼間の第宅の鎮守として勧請したものであると伝えられています。それは義朝公が下野守在任中のことであろうと推察されますので、恐らく今から八百余年の昔でありましょう。新編相模風土記(天保12年編)には、「御霊社、牛頭天王を合祀す」としるされ、「天保7丙申年11月書上絵図面、松平大和守領分相州三浦郡沼間村」の条に「御霊社」と見え「明治8年田畑其外反別取調野帳、第十五大区七小区相模国三浦郡沼間村」の条に「五霊社又は御霊社」更にその頃書上の「村明細帳沼間村」の条に「神社四ヶ所、熊野大神御霊神社、太神宮、諏訪明神」と見えています。熊野、太神宮、諏訪の3社は、後に五霊神社へ合併しました。(注)社号は御霊又は五霊と見えていますが、共に「ごりょう」と読み同一の神社です。明治6年12月、村社に列せられ、大正10年7月、神饌幣帛料供進指定神社に昇格、毎年春の祈年祭、夏の大祭、秋の新嘗祭には町から公費を神前に供進されました。大東亜戦争の後、神社制度が改められ、公費供進の制度も廃止されましたが、新に設立された神社本庁の統制に属し、宗教法人法の施行によって、宗教法人としての法人格を附与(昭和28年11月18日)され、尚従来官有地であった境内地を特に無償で神社へ譲与(昭和25年3月28日)されました。境内の銀杏の老樹は、当神社勧請の折植えられたものであると伝えられ、鎌倉鶴岡八幡宮の大銀杏におとなぬ樹令を保っています。昭和41年7月、「神奈川県天然記念物」に指定されました。回顧すれば、五霊神社は沼間の鎮守として、800年前の昔から手厚く護持崇敬されて来たのでありますが、当時僅か数10戸に過ぎなかった氏子も、今では、2千数百世帯を数えるまでに繁昌したのでありますから、益々伝統を重んじ、神社の維持経営に力を傾け、神徳の発揚に努めなければならないと思います。
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