神社情報
境内には湧水の豊富な座間市民の飲料水の源を有して、遠く大山、丹沢連峰の山並みを仰ぎ、近くは相模の母とたとえられる、相模川の流れを一望でき、また四季を通して草花の咲き乱れる座間公園に隣接する風光明媚な名勝であります。二、御祭神 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)景行天皇の皇子。古事記に「さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」とあるように凱旋の士で、東国征伐の途中、伊勢神宮へ参拝し、倭姫命より叢雲剱を得られ、その威霊によって駿河国に於いて野火の難を免れました。そしてその賊を滅ぼされ、相模国より走水の海を渡られ、上総国に入られ東国蝦夷を平定するなど、歴戦のロマンを秘められた尊の御神徳と御治績をお慕い奉っております。三、由緒 「相模の飯綱さま」と親しまれている当神社の創祀は神代と云われていますが、一つは欽明天皇の御代(539~571)に、坐摩郷(座間の古名)に悪疫が流行した折に飯綱権現の化身である白衣の老人が現われ、崖下の森の中に湧く清水を使うようにすすめたので、村人がそのすすめに従ったところ、悪疫はやみました。そこで飯綱権現を祀ったというのです。別の説(明治12年編成皇国地誌)では、約800年前の源頼朝が鎌倉へ幕府を開いたところ、悪疫が流行した時に白衣の老人が来て、日本武尊を祀れば悪疫が治まると教えたので、日本武尊を祀ったといいますが、その時代は正和2年(1313)で、祭神は飯綱権現だという説もあります。飯綱権現は、江戸時代には防火の神として信仰されていて(本来は伊勢の豊受大神と同じ食物の神様)、長野県の飯綱権現社が本社でした。座間神社と改めましたのは、明治9年で、日本武尊が野火で攻撃された時、剱で草を刈って防いで勝ったという神話にもとづき、後世防火の神様ともされていましたので、明治時代になって村社とされるとき、同じくご利益のある日本武尊に祭神が改められました。正和2年、社殿を再建します。この頃より武家の参詣が相次ぎまして、慶長7年(1602)には領主内藤修理亮清成(ないとうすりのすけきよなり)が一統を率いて参拝して武運長久、氏子の繁栄を祈られたという記録もあります。また、古くからこの地は、八王子街道の宿場街として栄え、ここを往来する人々、また生糸を運ぶ車両の安全を祈念した人々で社頭が賑わいをみせたとも伝えられています。四、境内地 6000坪 五、建造物 本殿(木造流れ造)、幣殿、神饌所、神楽殿、手水舎授与所、鐘楼、社務所他 元禄11年8月、本殿改築。明治13年8月、幣殿並びに拝殿を新築。明治42年5月、村内各所に鎮座する、天神社、蚕神社、浅間社、明王社、山王社、道神社を境内に奉遷し寄宮として奉鎮した。昭和15年11月、紀元2600年を記念し向拝を増築。昭和21年12月、第二鳥居建立。昭和30年8月、第一鳥居再建。昭和33年8月、玉垣改修。昭和46年8月、石段を改修。同時に境内整備事業の一環として神楽殿を新築。同年11月、戦争中に釣鐘を供出したため氏子中の要望により鐘楼を竣工。昭和51年4月、第二次整備事業による第三鳥居再建。社号碑、由緒碑の建立、手水舎、授与所を新築。昭和58年4月、社殿屋根老朽化に伴い、本殿、幣殿の新築、拝殿の一部改修。昭和60年4月、天皇陛下御在位六十年を記念し寄宮の改修、鳥居を建立し現在に至る。六、境内社(寄宮) 天神社(祭神 菅原道真)・蚕神社(祭神 保食神)・明王社(祭神 大日・貴尊)・浅間社(祭神 木花開耶姫尊)・山王社(祭神 大山祇神)・道神社(祭神 道之長乳歯神) 七、主なる祭典 1月1日 元旦祭、1月15日 成人祭、1月最終日曜天神祭(筆まつり)、2月節分の日 節分祭、2月11日 紀元祭、2月17日 祈年祭4月上旬 春祭(桜まつり)、6月30日 夏越大祓式、8月30日 例大祭、9月(二百二十日) 風神祭、11月15日 七五三祭、11月22日 新嘗祭、12月31日 師走大祓式・除夜祭 この外、毎月1日は月次祭を斎行しています。八、鬼門除・方位除 座間神社は唯一の鬼門除・方位除の守護神として、地相 ・家相・方位などから由来する一切の災難を除く特別御祈念を行なっています。座間郷の表鬼門に勧請されている座間神社を信仰することによって、建築・縁談縁組・開店開業など万事意の如く明朗快活な日々を送ることができます。
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