神社情報
祭神 天照大日霎貴尊 天忍穂耳尊 天津彦火瓊々杵尊 彦火々出見尊・・草葺不合命の五柱
由緒 人皇第十二代景行天皇の皇子日本武尊、御東征の折に当地(当時は亀井山と伝う)に五朶の榊を樹て、地神五代を創祀して五頭の宮と崇められたのが始めであるといわれている。第九十五代花園天皇の正和2年の春(約680年前)、三井の門徒浄覚大徳が社殿を再建して氏人たちは五社の宮と仰ぐようになった。鎌倉時代の武将早川城主渋谷重国の一族は精神的な依りどころとして五所宮(現在の五社神社)を崇敬せられしこと渋谷定心の置文により明らかである。慶安2年8月、徳川三代将軍家光公より社領13石の御朱印を寄せられる。明治6年12月、村社に列せられ、大正5年10月13日、幣帛供進神社に指定。昭和12年6月25日、五社大明神を五社神社と改称仝年10月6日、郷社に列せらる。昭和59年5月22日、皇太子殿下浩宮様神奈川県下の史蹟御研究のみぎり当社に御来社になり御参拝遊ばさる。昭和61年10月1日、神奈川県神社庁指定神社に昇格。四、社殿 現在の本殿は弘化2年9月建造。覆殿、幣殿、拝殿は大正15年10月造営。五、宝物 ・古文書一巻、護国山五社大明神略縁記(慶安3年9月作約360年前)・鏡1面、径1尺(約30糎)西村因幡守吉重作。・霊石1個、日本武尊東征の折憩い給いし石という。・額1面、拝殿正面、五社宮、北白川宮の御染筆と伝えられている。同時に菊花御紋章を上野東叡山より御下賜になって装飾に用いている。六、境内神社 ・稲荷神社、祭神 倉稲魂命。・三峰神社、祭神 日本武尊。・八坂神社祭神 須佐之男命。七、年中行事 ・[大祭]例祭 10月1日、祈年祭(春祭) 2月17日、新穀感謝祭(秋祭) 11月23日 ・[中祭]歳旦祭並びに綾瀬市交通安全大祈祷祭 元旦、八坂神社例祭 7月15日、稲荷神社例祭 2月初午の日、大祓式 大晦日 ・[小祭]氏子崇敬者安全祈願祭(月次祭)毎月1日・15日・28日、初宮詣、七五三祝、交通安全、厄除祈願、車祓い、其の他諸祈願等随時執行。八、氏子戸数 450戸 崇敬者 1500人(昭和59年10月現在) 九、境内坪数 1779坪(5937平方米) 十、御神木 大椎(樹齢370)大銀杏(270) 日本武尊御腰掛石由来記 紀元770年、景行天皇の御宇、蝦夷反乱皇子日本武尊東征さる。足柄を越え阿夫利山麓を縫いて小野の里に入り給いしに土賊伴りて降り、尊に告げて曰く「北の野、鹿に富めり、気は朝の霧の如く、足は茂れる林の如し、監みて狩猟し給え」と。皇子其の言を信じ野に入りて獣を求め給いしに賊は火を放ちて野を焼き、皇子を害し奉らんとしければ、尊は則ち御叔母倭姫命より賜われる剣を抜き草を薙ぎ払い燧石を出して向火を放ちたりければ、火却りて賊に向い之れを焼滅ぼし給いき。此の時より叢雲剣を草薙剣と改称す。尊爰より相模川を渉りて浜田の宿に入り此の地亀井山の岩石に踞し賜いて遥に西方御遭難の地を望み給う時、傍なる后弟橘姫命歌いて「さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」さねさし小野、小峰刺は相模の枕言葉にして小野の里のあの危急火焔の中に有っても妾の安否を問わせ給いし有難さよとの御夫婦愛は、早川より三浦半島の走水に出で海上暴風雨起りしに、即ち、御生命を贖いて海に投じ給いき。聖徳威武古今に儔い稀なる日本武尊と婦徳の亀鑑たる弟橘姫に御縁深き当社の聖域を記して以て後昆に伝えんことを翼う。於郷社亀井山五社神社社頭 白雲源鴻三 敬記 付記 右白雲氏は前当社氏子にして旧家丸山家守山甲太郎氏の次男に生れ現在子孫は藤沢市に在住せられ、崇敬者の守山鴻三氏で郷土史を深く研究され当神社に寄せられた腰掛石の由来記を掲載しました。護国山五社大明神略縁記抜粋 南謄部州大日本相模国高座郡渋谷ノ庄早川郷、惣鎮守五社大明神の履歴を鑑み奉るに、人皇第十二代景行天皇の皇子日本武尊、同帝40年夏、東夷征伐の命を蒙り給う時、東方に当り五色の瑞雲晃々と靉靆すれば尊天の発気を勘へ東をさして神馬を鞭打ち給ひし処に当国亀井の山に雲気収りたるとかや。爰に於て山中に分け入り見給えば5朶の榊一箇の大石あり。彼奇瑞を感じ霊石を頂き征伐の意願甚だ深々として東に到りて終に東征し国穏にして歓喜不斜帰洛の刻同年秋九月、此の亀井の霊石に如意満足の息を休め、則五榊の因縁にまかせ地神五代の神霊を草創し五頭の宮と崇め給う。(以下略) 慶安3年9月 庚寅 早川山軍茶利寺 実像院 法印岩鎮・教覚院 法印玄融記
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