神社情報
御祭神 日本武尊 神社の創立年月日は不詳であるが、社伝によると当社の御創建は極めて古く、第十二代景行天皇の第三皇子日本武尊、勅命により御東征の砌りこの地を御通りになり、その折相模にて聚雨に逢われ、沼辺の小野姓と称する人家に立ち寄った時、この甕で造った酒を奉持したと申し伝えている。現今も祭典の節はこの例に倣い、甕にて御神酒を奉る習慣がある。なお、この折、四角形の玉石二個を持参し、神璽として御奉納ありと古来より申伝えている。明治以前には、御社は古御嶽(古宮)と称し、現在残る古木(榎)より川縁りを北に向って参道があった。約5町余程の処に境川の流れに堰があり、堰止めた。支流は中里の田の用水として使われた。西方は一面の沼地であった。この地に御嶽大権現と称し、元和年中再建、延宝年中字古宮と申す場所から、武相境川縁り字嶽之内下に遷座したと神社明細帳にある。神域には千古の大樹が鬱そうとして繁り、昼なお暗く、境川のせゝらぎは自から神境に入る想いをあらたにしたと伝えられる。特に御神木は一段と高く、武相境を見下す大欅であったと、今なお古老はよく記憶している。南北朝時代この地に淵辺義博の居館があった。武将淵辺判官義博は特に信仰篤く、出陣に際しては幣帛を奉持戦勝を祈願した。古来より御神威の高い御祭神として、種々霊験あらたかな物語が残っており、鎮守の社と仰ぐ地元民はもとより、遠く北関東地方の各地にも崇敬者多く講中を組み、幟旗を立て参拝にくる風習は今なお続けられている。社殿も数度改築されているが、本殿は当時のまゝ現存している明治初年に水禍あり、御社の危急を感じた住民達は褌、丸裸で御神体と釣鐘をかついで難を免がれた。明治五年神仏分離令の発令にあたり皇武神社と改称、淵野辺鎮護の神として、村社に列した。明治10年9月社地改換許可あり、村人達は相談して現社殿の嶽之内中村に御遷座した。その後社殿、神楽殿、社務所、鐘楼など改築となり、神域はうじこの人達により整然と昔日の面影をとどめ、淵野辺の地を鎮めている。文化年間作の釣鐘は、長年村人の耳になつかしく響いていたが、第二次大戦中、お国のために供出した。その銘文は旧大野村の社寺書類に記録されているが、鐘の音は三十数年間とだえて、参詣の道行く人の哀愁をさそっていた。幸い昭和51年、神社遷座百年記念として新しく奉納され、拓け行く新興の街に余韻は静かに流れている。
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