神社情報
一、由緒沿革 村富神社の御創建は古く、村落開始と同時である。徳川四代将軍家綱の時代であり、今を去ること300有余年延宝元年(丑)であった。この原野は「矢部原」といわれ、村里なき時既に道の開け、甲斐より江戸に通ずる間道であった。道のたもとに一円の密林があって、巨松が聳え、鎌倉街道見透の松といわれた。この古道は鎌倉に向って走り、此の所で江戸道と交っていた。村の開墾盟主相模屋助右ェ門が此の処に神社を創建し、渋谷の荘上矢部新田村と相定めたのである。渋谷の荘とは鎌倉時代の武将「渋谷重国」ゆかりの地であったからと思われる。助右ェ門は、江戸の豪商であり、陣羽織を着用し采配をふるって農民を叫合した。人達より「おやかた」と尊崇されながら此の事業に専念する。山麓素行の如き人格者であったと口碑は伝えている。村内150町歩(150ヘクタール)の総鎮守としてここに宇迦之御魂の命を奉祀する。社地を設計するにあたり、天の28宿に象どり28間四面とする。誠に信仰心の厚く、将来の村人に宿星の保護を願ったものであろう。幕末から明治の初期にかけ、郷土の舞楽たる獅子舞あり。村の好事家達は笛や太鼓の修練も怠りなく、秋祭りには社地内木立ちの間をねり歩み踊る「狂い獅子」ともいわれた。いつか絶えて、古き名残りも神庫に眠る古宝あるのみと心の傷む思いである。慶応3年3月、村人京都に到り伏見稲荷より神宣を受け、村富稲荷社と名称される。明治6年12月、村社に列せられ「村富神社」と改称される。大正期には指定村社となった。明治17年2月23日、社殿を広やかに造営し学童の校舎に兼用すべく計りながら、神慮にかなわず火災により滅失し現在の社殿が再建された。その追認願いが明治43年3月18日と誌される。昭和17年8月、当社はその所有土地を神奈川県施行の相模原土地区画整理地区に申請し、現在の形の換地を受け爾来社殿及び社域の整備に努めて神威に答え奉る。一、主神 宇迦之御魂命(倉稲魂命)、相殿神 大己貴命・大宮姫命 主神の神は古事記神代巻に神統譜としてのせられ、海原を治める建速須佐之男命の系譜に掲げられている。産業の神として各家庭の屋敷神とし、又会社工場にも多く祭られる。相殿神大己貴命は或は大国主命、八千矛神などといわれ、出雲神話の主役をなしている。大宮姫の命はその神の妃である。記紀の歌謡は御両名の恋々の情などを伝えている。一、神儀 例大祭 8月30日、元旦祭 1月1日、初午祭 2月、七五三祝祭 11月
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