神社情報
御神徳 当神社の御祭神素盞嗚尊は、広く天王さんの名で知られており、夏祭として、全国的に多彩な行事が繰り広げられ、疫病消除を祈る人々の灯として厚く信仰されている神様である。夏祭に限らず、年中を通じて社頭には心身の病気平癒を祈る人の姿が絶えないのも、大神の御神徳の至す所である。素盞嗚尊は、我が国土をはじめ数々の神様をお生みになった伊邪那岐・伊邪那美命の御子神であり、伊勢神宮の御祭神天照大御神の弟神である。大神は気性の激しい直情径行の御性格で、云わば恐ろしい神様として崇められている様に、随分と乱暴なところもあったが、艱難辛苦をなされて遂に清浄な心境に到達された神様であることから、罪穢を祓い清める神様、すがすがしさそのものを表わす神様として信仰されている。大神様は多くの善根を積み重ね、自らの犯された罪穢を身を以って贖罪されたのであるが、中でも水の精霊である八岐大蛇を退治した話は有名で、それによって水を司る神、即ち治水の神様としての御神徳を有するようになられ、また奇稲田姫との御成婚によって稲の豊饒の神様、農業の守り神としての御性格をも備えられるようになった。更に日本で初めて「八雲立つ出雲八重垣つまごみに八重垣作るその八重垣を」の和歌を作られた神として、和歌の祖神とも仰がれている。また、大神は御子神の五十猛神と共に新羅国牛頭山に在り、植樹につとめられた事から山林の神としても崇敬されている。大神は自ら赤心をかけて御姉神天照大御神と御誓約された古い伝えから、誓いの神様として商家の広い信仰を集めている。このように商売の神、お祓いの神として知られているところから、近年では初宮詣・交通安全・厄除・家内安全等の御祈願を受ける人も多く、氏子の人々をはじめ、多くの崇敬者の心のよりどころとして崇められている。皆様の直く正しい信仰心が、大神の厚い御加護となって、我々に豊かな実りある、幸福な生活をお与え下さるのである。御由緒 天保14年に代官江川太郎左衛門の許可により、小山村の原清兵衛光保によって開墾され、入植者の心のよりどころとして社地を定め、武蔵国南多摩郡上檪田村の村社氷川神社より神霊(御分霊)を奉戴し、天保14年6月17日に村の鎮守の神として御創祀申し上げたと言われている。新田開発後の安政三年七月から八月にかけて、検地役人江川代官、手代津田橘六、恒川左内直親によって検地が行なわれ「清兵衛新田と称ふべしといい渡された」と言われており、この10年間に49戸の入植者を迎え入れた。清兵衛新田の入植者は大河原組、矢懸組、原組、横山組、比丘口組の五組に分割されたが、昭和39年の住居表示により相模原、清新、小山、南橋本、氷川町地区の産土神として崇敬されている。神域 創建当時の境内地は420坪であったが、現在の総面積は1055坪である。御社殿及工作物 本殿は、相原の「外の御前」の建物を、毎夜白蛇がその一部を咥えてこの地まで運ぶのを相原の氏子が見て、これは神意であろうと言うので、清兵衛新田に譲ったものであると伝承されている。本殿覆殿は、昭和38年に、拝殿は、昭和49年3月に、鳥居は、昭和45年秋に再建され、社務所は、狭隘の上老朽化したものを、昭和58年3月に御鎮座140年記念事業の一環として増改築したもので、それぞれ氏子の浄財によるものである。石碑 秋葉大権現、榛名大権現の石碑は、天保14年卯年6月9日に原清兵衛が奉納したもので、この石碑が当神社の御創祀を物語っている。石水盤及燈篭 検地が行なわれた安政3丙辰年8月に原清兵衛は更に御手洗を、検地役人手代津田橘六、恒川左内直親は燈篭を奉納されている。境内末社福徳稲荷大神 食物を掌り給う大神で、五穀を始めとして農牧、水産、養蚕等、あらゆる殖産興業の守護神として遍く全国を通じて尊崇されている。昭和27年に御創祀された祠を、昭和54年に新築したものである。子育て地蔵 子供の成長を願って開拓当時の人々が、弘化3年に建立したと伝えられ、爾来、南橋本にまつられていたが、昭和20年ごろ当神社の境内に移築されたが、子供の無病息災、安産を祈る参拝者が多い。開墾記念碑 新田開発当時の入植者の苦労を忘れないため、明治45年に村人有志により開墾顕彰記念として、その経過と顕彰を前田夏繁氏の撰文により、題字の「開墾記念碑」は第十五代将軍徳川慶喜公の揮亳により建立されたものである。開墾記念碑 碑文 およそ、一大事業を思い立つ人は多けれども、そを成就する人は、甚だ稀なり。こは、其の志を遂げるに非常の勇気と勤勉とに加うるに、強建なる人にあらざれば能く成しがたきによる。ここに相模の国高座郡小山村の人、原清兵衛翁は、此の勇気と勤勉と強建との三つを兼備えたるすぐれ人にして、相模原のうち相模野の開墾を思い立ち、ついに成就されたる一大美挙である。翁の家は甲斐の武田家の勇将原大隅守の末にして、武田家滅亡の後此処にのがれ住み、農事に一身をゆだねられ、世々相継ぎて翁に至る。翁は寛政7年2月其の家に生れ、幼名を清蔵と呼ばれ長じて清兵衛光保と名のらる。かくしきある旧家なるに翁人となり内に不屈の勇気を貯えたるも、外は温厚篤実を以て人に交わられしかば、其の信用おおかたならず、文化6年先考の後を受けて家督を継ぎしより、能く人をもちい能く業を進めて家道ますます栄え、男女の子5人を挙げられしに、長子清蔵氏家事をとるにたえるよわいになれりとて、清兵衛の名をつがせて家をゆずり自らは隠居しその名を嘉兵衛と改めらる。なみなみの人ならば我事おわれりとて閑日月の中に、老をやしなわるべきに、翁は久しく意中に考え置かれし開墾のことを思い立ち、相模原のうち相模野の荒野を開かんとて、おおやけに出願されしは天保11年の初めなりしが、事容易ならねば、さうなくば許されざるを、翁があまたたび熱心に請い申さるる筋の道理をや認められけん、同14年9月、時の代官江川太郎左衛門君より開墾許可の由を達せられしかば、多くの人を駆集めて、きり開きに打ちかゝり、道路を通じ水利をはかり、民家49戸を建て堀井15ヶ所を設けて飲料にあて、戸毎にあるべき限りの農具をも配り備え、ここに移住せしむべきものは近村農家の2・3男の他に出るも差支えなきもののみを入るる事として、初めて村落を形づくりしかば、安政3年7月より8月に亘りて、官より検地を行なわれ、205町9反2畝7歩と確定せられ、新に清兵衛新田と称うべしといい渡されぬ。翁はいささかも私利をはからず、費用をなげうちて此の洪益を、後に遺さるるを悦び、74才の高齢をたもちて慶応4年5月、身まかられ小山村なる先塋の側らに葬られぬ。翁の後をうけたる清兵衛氏は、明治2年2月、世を去りて、今のあるじ清兵衛氏其の家を継がれしが、開墾地は畑物に養蚕に年々に栄えて、今は70余戸となれるにつけて、故翁の功労を追懐すればいよいよ深く、いかで此の事を後の子孫に伝えんとて有志のともがら相謀りて、建碑のこと定まりぬればとて、おのれに撰文をこわる。おのれ亦翁の公徳心厚きに感じ、辞せずしぞ、ここに其のあらましを記すこととはなりぬ。時は明治45年6月 72翁 前田夏繁誌 祭典 若水祭・歳旦祭 1月1日、古神札焼納祭(どんど焼き) 1月14日、初午祭 2月初午の日、紀元祭 2月11日、祈年祭(春祭) 2月17日、夏越の祓 6月30日、例祭 8月23日、神嘗祭当日祭 10月17日、新嘗祭(秋祭) 11月23日、師走大祓・除夜祭 12月31日 月次祭 毎月1日・15日
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